駅弁あなごめしの始まり・・・・ 

他人吉開業で迎える1999年の冬、そして2000年の春・・・
あなごめし弁当うえのはおかげさまで100年を迎えました。

他人吉(たにきち)は宮嶋駅(明治30年開通)の駅売り弁当として、あなごめし弁当を販売した初代の名前です。他人吉翁が明治の中頃宮島でお米を販売したのが商いの始めと聞いています。

その後、機会があって宮島口の駅前参道に茶店を開業して後、駅弁当「あなごめし」が誕生しました。以来厳島とその近海の豊かな海に恵まれ美味しいあなごがたくさん漁れたことで今日まで変わらぬ味をお届けすることができました。

こうして100年を迎えられるのも永年あなごめし弁当に格別のご贔屓を下さいましたお客様のおかげです。
一時期、地物にこだわりすぎるあまり、質の悪い地あなごまで仕入れざるおえない状況になったこともございます。
その経験をふまえ、そのようなことにならないように日々の仕入においては地物の良いものと地物に優るとも劣らない味のあなごを広く求め、吟味して用いることで、ご期待に副えるあなごめし弁当をご提供できますよう努めております。
どうぞ変わらぬご愛顧と御指導も合わせてくださいますよう宜しくお願い申し上げます。


 
このレッテルはあなごめし弁当 最初のものです。明治の末から大正時代の初めまで使われました。定価金拾五銭と書かれてい ます。 墨絵のタッチがおしゃれで気に入っています。

明治30年鉄道が開通し宮島駅が誕生しました。
島への蒸気船も走りかって海上のルートの重要拠点であった宮島が鉄道とつながった商業地としてさらに多くの参拝者を迎え栄えてゆくことになった時代です。
西日本でも有数の歓楽街として繁栄を重ねた江戸時代の文化に欧州スタイルがミックスされ宮島島内の景色も独特の匂いを漂わせながらおしゃれになってゆきました。

 
このレッテルは大正時代のものです。山陽鉄道が国鉄として統合され、あらゆる駅弁のレッテルが東京神田の印刷所で刷られたのが、この時代です。

ご覧のように、レッテルにはコマーシャルが2カ所に別れて載せられています。この時代は、全国の駅弁に毎月同じ宣伝文がこうした形でさしこまれておりました。
 

同じく、大正時代のレッテルです。
当時のレトロなデザインは、今の私たちの感性では到底およぶべくもありません。
この時代の世相を反映した宣伝文にもご注目下さいませ。また、ラベルの中にある宮嶋駅、現在は宮島口駅のことですが戦前までこの宮嶋の名前でしたしまれておりました。

なつかしい昔の宮嶋駅はわたしが10才の頃まで残されておりました。大きな大きな竹かごに100個以上のお弁当を入れ込んで母と一緒にホームの端から端まで車両ごとにお弁当を積み分けていったのが思い出されます。

 

このレッテルは大正も終わりの頃のレッテルです。
こちらでは値段にご注目下さい。明治から大正にかけては金十五銭でしたが、ちょうど国鉄に統合されてラベルにコマーシャルが入りだした頃から、一気に値上がりしてしまい三〇銭になってしまいました。ちょうど米騒動の時期に当たっていたのでしょうか・・・。

大正時代のこれらのレッテルは、毎月のように広告文が入れ替わり、全国の駅弁屋に東京神田の印刷所から送り出されていました。当店にもここに出ていないたくさんの大正時代のラベルがあったのですが、今はこれ以外に数点を残すのみとなりました。
大正十一年秋、東京をおそった関東大震災はこの駅弁のラベルに大きな転機をもたらしました。当然神田の印刷所も破壊されたことでしょう。一度統合された全国の駅弁ラベルもこうして地方にもどされてゆきました。

 

このラベルは昭和にはいってから広島の印刷所で刷られ使われたものです。この時代にいまのKIOSK(駅売店)の前進である国鉄弘済会が組織され、お弁当の値段もち地域ごとに統制される時代になりました。
大正時代の三十銭も昭和に入ってからご覧のように二十五銭で統制されました。

このラベルは昭和十四年まで使われていたようですが、太平洋戦争の勃発に伴いラベルのうえでも戦時色の強い言葉が全国の駅弁でも使われていたようです。

戦争の激化に伴いお米のない時代はパンを売っていたこともございました。使われずに残ったラベルには「国民精神総動員」の大きな文字が刷られていました。

創業明治三十四年

 あなごめし うえの

TEL: 0829-56-0006
FAX: 0829-56-3187

EMAIL: ueno@anagomeshi.com

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